江戸時代までの京都は常に都であった。政治の中心が、鎌倉に移り、江戸に移ったことはあっても、変わることなく日本の首都であった。鎖国という永い眠りから醒めた幕末の動乱期、日本の歴史は再び京都を中心に回り始めていた。しかし、動乱がおさまり、新しい体制が樹立されると、まもなく政治の中心とともに首都の機能まで東京へ去ってしまった。元治元年(1864年)の大火の痛手から立ち直りかけていた京都の人々にとっては、大きな衝撃であった。京都はたちまち古都となり、地方都市となり、西京と呼ばれるようにすらなった。

京都の明治はこの衝撃から立ち直りの時代であった。同時に、京都自信の回復の時代でもあった。明治新政府が目指したと同様に、京都もそれを近代化に求めた。これは歴史の趨勢(読み方すうせい)でもあった。京都の近代化への挑戦は京都策と呼ばれ、3段階に分けられる。

京都策の第1期は明治初年から14年までの時期で、京都府大参事からのちに第2代知事になった槇村正直を中心に推進された。人材の育成と産業の育成とが2本の柱であった。全国に先駆けて小学校を開設し、中学校を開校した。政府の学制の先を行く独自の教育制度は、京都府の主導によるものではあったが、市民の積極性に負うところも少なくなかった。勧業政策も強引なまでの府のリードによるものであった。西洋の知識と技術の導入をはかって新しい産業の開発が試みられたが、民間資本の蓄積の未発達な京都では育たず、わずかに伝統的な産業の近代化に成果が見られたに過ぎなかった。

京都策の第2期は明治14年から28年までの時期で、第3代知事北垣国道による琵琶湖疎水の建設がその中心であった。だい1期以来、近代化の方向として工業都市を目指していた京都にとって、内陸性の立地は大きな障害であった。その動力源と輸送路の確保のためにも疎水の建設は急務であった。さまざまな困難を乗り越えて、疎水は明治23年に完成するが、計画を変更して採用したわが国最初の水力発電は、京都の近代化にとって強力な力となった。明治28年、遷都1100年を迎えた京都では、市街電車を走らせ、第4回内国勧業博覧会を開催して、盛大に記念祭を挙行し、内外にその再生ぶりを高々と誇示した。

第4回内国博覧会当時を再現した模型
「第4回内国勧業博覧会」当時の岡崎

模型に現在の道路を主要建物を合成
現在の岡崎

第3期の京都策は明治28年から大正にかけてである。明治22年に市制を施行した京都市は、31年の市制特例廃止に伴って初代民選市長として内貴勘三郎を選ぶ。その内貴の壮大な都市構想を現実に向けて軌道にのせたのが第2代市長西郷菊次郎であり、いわゆる三大事業であった。明治45年にその三大事業が完成し、京都はほぼ近代都市としての形を整えた。現代京都の原型もこの時期に出来上がったといえよう。

京都はその永い歴史の中で、他には無い財産を築いてきた。深く重い伝統がそれである。京都の伝統はただ古いものを守り続けることではない。古いものを活かし、新しいものを創造する、新たなものを受け入れる奥行きを持ってきた。古いものと新しいものが葛藤し、刺激し合う。古いものと新しいものの相剋と相乗が、京都の伝統であり歴史であった。桓武天皇が造り、豊臣秀吉が改造し、町衆が育ててきた京都を、明治の人は大きく変えた。古都となった京都は近代化へと大きく翔たいた。良い意味での京都の伝統をまもって翔たいた。大正から昭和へと時代が移り、日本が変わり日本人が変わった。京都も京都人も変わってきた。いま、京都は、われわれは、その伝統を未来へ伝えられるだろうか。

最終更新日:14年11月02日
(C) Copyright 1998 FORES MUNDI All Rights Reserved.