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Nishijin Telephone Office
西陣電話局

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西陣電話局
旧:京都中央電話局西陣分局

設計:岩元禄
所在地:京都府京都市上京区堀川通中立売東入ル
用途:商業施設
竣工:1922年(大正11年)
延床面積:1178m2(再生部分)
規模・構造:RC造一部木造3階建

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Camera:
Nikon F60 28mm〜80mm
Film:
FUJIFILM PROVIA100 Professional

作成日:
2000年05月 06日

最終更新日:
ページは追記・修正があったときに随時更新しています。
2008年07月13日

作成者:
Mitsuo.K


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逓信建築の人柱と巨匠岩元禄さんの事など

(逓信史話上・昭36、12、逓信外史刊行会編・電気通信協会刊)

岩元さんは、東京一中、一高、東大の秀才であって、一高時代の親友には厚生年金病院の名倉重雄博士などがあり、また徳川夢声氏は一中時代のクラスメ−トと聞いている。これらの人に会うと、岩元氏は一高時代から非常な秀才であったといわれて、その若くして死んだことを惜しまれている。因みに東大時代のクラスメートの大口、島田、八木、富永さんらは近年相続いて世を去った。私が東大に入った1年の時に岩本さんは3年で、図面その他、手を取って親切に指導をしてくれた。私の東大の卒業設計は「ジュネーブに建つ国際労働会館」という、まったく空想的なものであったが、この図面も一部岩元さんに手伝ってもらって、そのデテールなどでは私の作としては過ぎたるものであった。

私が役所に入った時、岩元さんはすでに大正7年に大学を出て、その年から逓信省の営繕課の技師として設計に対して非常な熱意を示しておられた。岩元さんの短い逓信時代の作品の代表作はなんといっても青山郵便局である。その他に現存しているものでは西陣の電話局、多分高松電話局の増築の一部、それから東京人形町の電話局も地震で焼失したが、やはり岩元さんの作である。

岩元さんは大正7年に逓信省に入って、多分大正10年の頃かと思うが、東大の伊東忠太先生の助手、助教授として東大に転職された。岩元さんは有名な一高の哲人夏目漱石の「三四郎」に出てくる「偉大なる暗闇」が実兄である。「三四郎」の中には引越しの時に峯子が手伝いに行って、書物が非常にたくさんあるのに驚いて、これは全部お読みになりましたかと聞く場面があったようだ。非常に読書家で、哲学の大御所でありながら、かつて書物を書かない。またなかなかの変人で、酒は大いにたしなんでおられたが、一生独身主義者であった。その実弟の岩元禄さんも独身主義者で、金とか女の話をしようものならご機嫌が悪くなり、叱りつける状態であった。しかし、時には大いに飲み、芸術を論じて夜の更けるのを知らない。今の早稲田大学教授今和次郎、未来派音楽家の石川儀一、画家の田家某というような連中を集めて「自分は総合芸術を実現するんだ」といっていた。それで油絵も描き、彫塑もやり、音楽もやり、作曲もやり、月給をもらうとすぐ絵具を買ったり、或いはグランドピアノを買って、冬でも夏の洋服でおった程の清貧振りであった。

東大で教鞭を執るようになって「自分は1年間コンポジションというものだけについて講義をしようと思うがどうだ」というようなことを私にいっておられた。そして1級先輩の海野浩太郎さんとは親友であって、海野さんの亡父は彫金の大家(帝室技芸員)であったが、(海野さんは清水組に入って技師長となり、今は亡き人である)そのお父さんのアトリエを借りて、そこでグランドピアノを鳴らし、絵を描き、彫刻もやり、朝は夜明けからまたグランドピアノを叩いているので海野さんは「岩元、大丈夫かな」といっていたが、果たして病気で倒れた。青山電話局の完成も待たずに青山電話局の正面柱形の上には大きい彫刻をつける設計でそのスケッチを私に託して「これで石膏原型をつくりコンクリート像を実施してくれ」といわれ、まずそのスケッチに基づいて粘土の模型を作った。その粘土模型のスケッチを前に絶対安静で喋ってはいけないというのに「そこを少しこう直せ」と談筆で熱心な指導振りであった。ところがその彫刻は岩元さんが逓信省を去った後、上司の間に「電話局の正面に裸体美人をつけるとは怪しからん」ということで、その実行が阻まれたのは遺憾であった。そして岩元さんは病が篤くなって倒れたのであるが、そのスケッチは私がもっていたのでここにかかげる。

それより一寸遡るが、西陣の電話局にもレリーフのようなものがあるが、私が、コンクリートで左官に命じて、岩元さんのスケッチと小さい模型を基に実現させた。今も西陣の電話局に残っている。前述のように岩元さんはアトリエにおいてピアノを鳴らし、油絵を描いていたが、カンバスがなくなると、ドアにも壁にも描いた。その絵は非常によくて、われわれも1つ形見にほしいと思っていたが、実兄の「偉大なる暗闇」がきて、「こういうものは不潔だ」ということで、全部焼払ってしまった。

その後、岩元さんの後に続いた吉田鉄郎さんも、逓信建築の設計者としてはまことに立派な人であった。吉田さんは静かな人、一方の岩元さんは動的な人。岩元さんの芸術はディオニユソス的であり、吉田さんはややアポロン的であるというように感ぜられる。

当時われわれは、近代建築に最も特徴をもつ合目的性を旗印とするセセッション建築を支持し、これに因んで分離派建築を興じ、盛んに若い建築家として気勢を上げていたのである。岩元さんは「そういう理知的な、打算的な建築はダメだ、俺の建築はガイスト・スピレーン(精神遊戯)だ、ガイスト・スピレーンでなくちゃいかん」といい、そして「建築の用途がその芸術の中になんとか納まればいいんだ」ということをいっておられた。私の親友である堀口捨己君と、青山墓地に近い岩元さんの下宿を訪ねた時には、もう夜も1時頃になったので帰ろうというのを押しとどめられた。火もないところに夏の洋服を着て、犬を抱いた岩元さんは「君たちは外套を着ていたまえ、これから大いに夜を徹して芸術を論じようではないか」という。そして青山墓地のあたりを夜中に散歩して、とうとう夜を明かしたこともあった。兎に角まじめで、熱情的であった。その人の作品を今でもみると一点一角おろしかにしない、また世間の、いわゆる建築の流れというようなものにたやすく合流しない、独自の強い高い理念を持って終始しておった。岩元さんは大正12年の大震災を待たずして、たしか大正11年にこの世を去られた。

全くこの人が長生きをして、現在われわれと一緒にいたならば、大正、昭和への日本の建築はもっと姿が変わって、もう少し芸術的なものになっておったろうと思われるのである。日本の芸術家に実朝とか啄木とかいう、若くして世を去った人もあるが、われわれはその作品を見て巨匠の風を備えた人であったと、常に敬服し、その短命を惜しんでいる。岩元さんはわれわれ逓信建築の設計人に与えた最も精神的な、芸術的な力を持った一人であると思う。

山田守


友っていいっスねぇ・・

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