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1999/11/07 Last renewal 2001/08/01
 もと壬生郷士前川家の屋敷と、坊城通をへだてた八木家が、文久3年(1863)2月から慶応元年(1865)西本願寺の集会所に本拠を移すまで、新撰組の壬生屯所として便われた。前川家は平家建の長屋門のある家で、外観は当時の面影を残している。長屋門入口右手の格子造りの出窓は、新撰組がつくったもの。建物内部の柱には、当時の刃痕が昔のまま残っている。ここは非公開のため内部の見学はできません!京都警備充実のため文久三年(1863)江戸から派遣された浪士組が後の新撰組で、当初は壬生村の八本源之承氏宅(梛ノ宮町)と新徳寺(壬生賀腸御所町)に分宿していた。この浪士組は出羽国荘内藩の清河八郎が組織にあたり、七隊百数十名の浪士が2月8日に江戸を立ち、22日に壬生村に入ったが、幕府はなんら京都警護につけぬまま江戸に戻している。ところが、八木宅に分宿した芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らは残留し、京都守護職松平容保に採用され、「新撰組」を名乗り京都警衛にあたることになった。残留した浪士は十数名で、彼らは八木氏宅を千生屯所とし、「新撰組宿所」の札を掲げる。やがて組員は増加し、組員はその周辺に起居した。8月18日の政変の御所警護で、新撰組の名を市中に知らしめることになる。慶応元年(1865)4月に屯所は西本願寺太鼓番所に移されるまで新撰組に拠点であった。将軍を守るという目的で、京都守護職松平容保のもと結成された新撰組。だんらん羽織に「誠」の字を染めた隊旗。新撰組を売り出すための現れなのか、その派手な衣装で市中を闊歩していた。京の人たちはそんな新撰組を「壬生浪」とさげすみ、恐れたという。次第に増えてゆく隊士に対して、近藤勇はきびしい法度をつくり、違反者には切腹を命じた。それでも隊士は増加してゆく。だらけきった世の中に、きびしい規律の新撰組に浪士たちは誇りを見い出したのかもしれない。 壬生寺の境内には新撰組の中心人物のひとりである近藤勇の胸像が置かれ、新撰組隊士の墓が作られている。


新撰組 壬生屯所跡
 
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所在地 京都市中京区梛ノ宮町

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